『母親になって後悔してる』を読んで

ずっとずっと読みたかったこの本。ようやく図書館から順番が回ってきて、借りることに。

 

んー・・・読後の印象は、「訳者あとがき」を読んで、何かがプチっと切れた。

「(・・・)ひとつ強調しておきたいのが、本書の研究対象になった女性たちの後悔は、母になったことであり、子どもではない、ということだ。「母になったことは後悔していても、子どもたちについては後悔していません。・・・得られた子どもたちは愛しています(114頁)という告白を受けて著者が解説しているように、彼女たちは子どもを、生きる権利を持つ独立した別の人間だと位置づけているのだ。

 

違うでしょう。矛盾してるし、これは訳者の主観が入りすぎでしょ?インタビューを受けた23名の母親の中には、明らかに子どもが愛せないという人もいたし、そこに母親になって後悔しているという気持ちが切り離せない人もいた。事態はそれほど単純じゃないんだなぁと一読者として思った。なのに、最後の最後のあとがきで、ある一人の、114頁に登場した女性のセリフを取り出して登場したすべての母親の意見かのように取り上げちゃう訳者の発言には、首をひねらざるを得なかった。それはあまりにも短絡的な考えでしょう?と。その一言で、ご自分が訳した本を台無しにしちゃうよ?と。

もともと社会学者が書いた「論文」だというこの本。おそらく原文は論文独特の読みにくさがあっただろうに、それをここまで訳した訳者には、敬服にあたいする。上記のコメント以外はね。

 

<まとめ>

タブーにつっこんだセンセーショナルなタイトルに、とても興味く 同時に どの国も、先進国は似たような価値観があるんだと思った。その価値観の裏で苦しめられる人がいるならば、「社会的な良識」からいったん離れ、それ以外の考えや生き方を肯定的にとらえる風潮が生まれればいいなと心の底から思った。・・・さて、「父親になって後悔してる」って本は いつか出るのだろうか。

心境の変化

彼と再会してから、今まで固執してきたものー5年もの間続けてきた不妊治療ーが いい意味でどうでよくなってきた。何が何でもゆずれないもので、キャリアもお金もすべてをなげうってきたことなのに。何が目的だったのだろう。事実婚の相手との間に しかも精子がないという相手との間に むずかしいけれど 提供受けながらでも治療してた現実。はっきりいって自分一人で頑張ってきた感があるここ数年。でも、彼と出会うことによって そんな頑張りはいらないよ、彼と一緒に歩くだけで幸せじゃない?と思えるようになった。なにがなんでも 子どもっていう発想は、少しずつ消えてきている。彼の出会い、存在が 価値観や凝り固まっていた心をほぐしてくれている。

 

ここ数日、GW中は仕事もないのだから、しっかり考えてみたい。それから、彼にも いつかは この治療のことを話さなければと思う。

 

仲良くなっても、男女の関係になっても妊娠には気を付けようね といってきた彼だから、私がこんな治療しているとしったら もしかして これっきりの関係になってしまうのだろうか。それとも、より深まるのだろうか。

 

どちらにせよ、セックスやパートナーとの関係に真剣に向き合ってこなかったことのツケが 今の治療につながっていると思う。そしてそれは、セックスを語ることをタブー視てきた家族や学校教育にもつながっていく深い深い根だ。そんな時に現れたのが一回りしたの彼。

 

自分の女性性を肯定的に考えられるようになったのは 彼の存在が大きい。くだらない話も深い話もいろんな話が永遠にできる人。

色んな意味で解放感を感じてる。

精子提供

ある晴れた秋のこと。

 

卵胞チェックなどが終わり、エレベーターに乗って

病院を出ようとしたそのとき、小さな女の子が目についた。

何歳ぐらいかなぁ 5歳ぐらいかなぁ

 

 

その子に、「ママ、見た?」と言われ、

「ママ?ママはどうかな。パパは見たよ」と答える。

受付近くに男性が一人いて、その人がパパかな?と思ったから。

そしたら、「パパ、いないの」と女の子。

「ママと XXちゃん(自分)と、犬がいて、パパはいないの」

 

そうなんだ。パパはいないけど、ママは不妊治療してるんだ。

精子提供・・・?かな。

じゃあ、あそこにいた男性は、ドナーさん?

ママは、きっと 診察前に一人で座ってた人だろう。

 

「ワンちゃんは、何色なの?」

「黒」

「ふ~ん、いいねぇ、黒いワンコ」

 

そんなことを話してたら、女の子は、エレベーターを指さした。

「来たよ」

 

なんだか、このまま女の子と話し続けてたくなっちゃったけど。

「あ、思い出した!ママいたよ!もうすぐ来るから待っててね」

といってエレベーターに飛び乗った。